論破や勝利宣言というのは単なる自己満足の子供じみた行為です

大学での学び
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人間はひとりひとり異なる思想をもっているのですが、社会生活を円滑に回していくためには、このような人によって異なる思想をすりあわせて協力していくことが必要になります。

議論というものは、本来、そのすりあわせのために行われるものなのですが、テレビで放映される「討論番組」やインターネット上でのやりとりをみると、はじめから思想のすりあわせなどするつもりもなく、一方的に自分の言いたいことをしゃべり倒して、相手を降参させることが目的とされているようなものばかりでガッカリさせられることがよくあります。彼等は、もはや自分しか見えなくなってしまったただの「裸の王様」です。

人間は、誰しも年齢を重ねると程度の差こそあれ意固地になっていくものですが、大学生のみなさんがこのような状態になってしまうのはまだ早いです。大学生のうちから相手を論破することに執着していたり、どや顔して勝利宣言したりというのでは、30歳に到達する前にみなさんの忌み嫌っている「老害」になってしまいますし、今後、生きていくうえでもろくなことはないので、このような連中を手本にするのは本当にやめた方が良いです。

この記事では、論破・勝利宣言癖がもたらす弊害について思うところを書いていきたいと思います。

論理的にものごとを考えられなくなる

議論における「勝利」には、議論の内容で勝ったという場合もありますが、議論とは直接関係のない個人攻撃などによって相手がへこんでしまったとか、相手の人があなたとのやりとりを面倒に感じて議論を放棄してしまったといった、議論の中身とは関係のない理由による場合(いわゆる「盤外戦術」)も多々あります。

残念なことに、議論に「勝利」するには盤外戦術の方が圧倒的に楽です。自分をの考えを裏付ける証拠を探して、それらを論理的に組み立てるというのは、慣れていても大変手間のかかることです。一方、相手の意見に難癖をつけたり、相手の人にはどうしようもない個人的・社会的なバックグラウンドを攻撃したりというのは、しっかりした証拠も論理だても必要なく、ある程度パターン化できることもあり、本当に楽です。

このうまみを知ってしまった人は、どんどんと盤外戦術で議論に臨むようになっていきます。この「勝利の方程式」に依存してしまうと、わざわざ手間をかけて証拠を集めたり、どうしたら理解してもらえるかを考えたりということがどんどんと面倒になっていきます。どうせ勝つなら楽に勝てるほうが「合理的」ですから。

その結果、証拠を集めて考えるという、自分の思考を強化するトレーニングをどんどんとやらなくなります。そして、どんどんとバカになります。頭も、身体と同じように、使わなければ劣化していきます。せっかくの「勝利の方程式」をわざわざ放棄して、証拠を集め、論理を組み立てるという大変な道を再び歩んでいく人はほとんどいません。このため、一度、楽を覚えてバカになってしまうと、元に戻ることもほとんど不可能になります。

周りから人が離れていく

人間は誰しも嫌な思いをしたくはないものです。このため、盤外戦術で個人攻撃をしてくるような人、自分の考えを聞こうともしてくれない人とは「二度とかかわりたくない」と思うのも自然なことです。嫌な思いをした人はどんどんとその人から離れていくことでしょう。

このような嫌な思いをした人(被害者)が増えていくと、次第に、周りから「あいつはやばい奴だ」という評価が定着してきます。嫌な思いをすることが分かっている相手に自分から近づいていく人はいません。論破・勝利宣言癖がある人には、人が離れていくだけでなく、もとよりまともな人が寄りつかなくなってしまいます。

論破・勝利宣言癖のある人は、本当は相手を不当に落とした結果でしかないにもかかわらず、このような勝利をつかむための過程に問題があるとは思っておらず、「正当な手段で論破した」としか思っていません。このため、自分の周りから人が離れていったことについても、正しくその原因を理解することはできません。「あいつは自分の未熟さを分かっていない」「あいつはバカだから」といったように、自分に近づいてこない相手の方が悪いといった思考になりがちです。結局、自分から状況を打開できず孤立に陥ります。

同じような年代の同じような属性をもった人が同じ場所で1日の大半を過ごすという人間関係が濃密になりがちな「学校」という場で多くの年月を過ごしてきた大学生のみなさんにはイメージしづらいかもしれませんが、多くの人は他人にほとんど興味はなく、積極的に人間関係を作りにいこうともしません。嫌な人、面倒そうな人からはどんどんと人が離れていきます。学校生活のように、嫌でも同じ時間、同じ空間を共有しなければならず、嫌でも人間関係ができてしまう状態というのは、卒業するとほとんどないのです。クラス替え、進学といったイベントがない社会では、孤立がちな人はずっと孤立状態のままです。

孤立がもたらす弊害

協調性がなくなり被害妄想にとらわれる

議論を「勝つ」ためのものと考えている人は、自分とは異なる考え方をする人をうまく受け入れることができません。意見が対立したときに、相手を尊重するのではなく、勝ちにいこうとしてしまうからです。相手の人と折り合いをつける(妥協)することが頭のなかで「負け」と変換されてしまって、屈辱感・劣等感を覚えてしまうこともあります。

さきほども述べたように、人間は嫌な思いをしたくないものです。議論に負け、屈辱感を覚えるという嫌な思いをせずに済むように、本当はうまく折り合いをつけて一緒に活動していかなければならない相手であっても、自分を守るために意見を撥ねつけてしまうようになります。協調性の喪失です。

また、このようになると、他の人が自分とは異なる意見を表明したときに、「自分を攻撃しようとしているんだ」「あいつは俺のことを嫌いだからこのようなことを言うんだ」という気持ちが先走って、議論を議論として受け止められなくなります。相手にレッテル貼りをして勝利してきた「成功体験」から、相手の発言にも「自分に対するレッテル貼り」をしようとしているのだと、自分の思考形式を投影してしまうわけです。人間関係はその人を映す鏡とはよくいったものです。

世のなかのあらゆる人が「敵」に見えるようになると、本当に生きにくくなります。

打算的な人ばかりが寄ってくる

多くの人は、自分に対してそこまでの自信をもっているわけではありません。このため、社会に「敵」が増えてくると、自分の正しさを確認するために「仲間」を探したくなります。

残念ながら、そのような独善的で協調性のない人のところに集まってくるのは、他人の不安や不幸に乗じて利益をあげようとするカネ目的の連中か、自らの勢力を拡大しようとする野心家くらいです。人々の不安や不幸は彼等に利用され、単なる養分になります。

このようなことを言うと、怪しげな新興宗教のようなものを思い浮かべるような人もいるかと思いますが、それだけではありません。今日では、名の知れた企業であったり、「インフルエンサー」的なポジションにある個人が、「ビジネス」として「信者」を囲い込むといったことが普通に行われています。

「ビジネス」として行われている彼等の行動は、外野から見るとまったく滑稽なのですが、「信者」は「自分の行動を否定されたくない」という論破・勝利宣言の繰り返しからもたらされた思考癖と、「孤立したくない」という自分の苦境を打開したいという気持ち、「(孤立している)自分に寄り添ってくれる人は悪くないはず」という思い込みから、この滑稽さに気づくことができず、延々と養分として吸われていきます。


昨今では、報道機関だけでなく、インターネットの世界でも世論誘導が露骨に行われるようになってきました。論破・勝利宣言癖のある陣営が社会に与える弊害は以前とは比べ物にならないほど大きくなっています。現在、わが国は新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大に苦しんでいますが、論破・勝利宣言といった「楽」な方法をあたかも「正当な方法」であるかのように触れ回る連中を放置した結果、いつまで経っても必要な情報が正しく伝わらず、科学的・社会的正当性のない利益誘導的な話ばかりが強い影響力をもっている現状を強く危惧しています。

「大きな苦労をせずに有利な立場に立ちたい」という気持ちは、個人としては「成功への近道」であったとしても、社会全体のレベルで考えると社会を不安定にし、崩壊させる社会悪としての性格をあわせもつものです。わが国では、バブル崩壊から30年以上も低迷状態が続き、彼等の放言を放置しておけるほどの社会的な余裕はほとんどありません。ひとりひとりがしっかりとした議論の仕方、対話の仕方を考えることを通じて、草の根レベルから「社会」の作り方を考えていくべき時期なのではないでしょうか。

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